Kirikuiのエッセイ > 覚え書き

モネ、絵と庭
印象派の画家モネを取り上げたテレビ番組の中で、モネの技法を再現するコーナーがありました。
キャンバスに絵具を落とし、流れる跡からインスピレーションを得て、再び絵の具をキャンバスに落とす。会話するように、その繰り返しの中から、絵を生み出す。

自分の行為とそれによって生じる結果、その関係性の中から、作品を創り上げるという方法をとっていたそうです。

これは、庭づくりとよく似ています。
宿根草を植えたり、草を刈ったり、樹木に鋏を入れたりすると、庭が、植物が、反応を返してくれます。
その反応は予想通りということもあるけれど、想像以上に良い結果、逆にまったくの期待はずれ、という場合もあります。
その結果を受けて、また手を入れる。
そんな会話を繰り返しながら、庭はつくられていきます。
 

モネは庭仕事に情熱を注いだ人としても知られています。
フランス・ジヴェルニーのモネの庭は有名です。
モネはきっと、絵を描くことと庭づくりを同じようにとらえていたのだと思います。
2016/2/19
なぜ日本人は家を塀で囲うのか
僕の育った家には小さな門があって、そこを開ければすぐ家の玄関。
開け閉めを面倒に感じていた子どもの頃の僕は、「こんな門、ないほうがいい」と思っていた記憶があります。

日本の住宅を眺めると、それほど広くない敷地でも、塀と門がある家が少なくありません。

日本人は、都市を壁で囲うことをせずに生きてきました。
中国の都にならってつくった平安京では門はあっても、壁はつくられませんでした。
江戸の都にも、「ここまでが江戸です」という壁は存在しません。

都すら囲わなかった日本人が、なぜ住宅は塀で囲うのでしょうか。
長らくこんな疑問を抱えていましたが、日本人の「私」(プライベート)の概念の最小単位が「家」であり、その「私」と「公」の境界が住宅の塀や門であるという見解を知って、なるほどと膝を打ちました。
 
プライベートと聞くと個人に属するように思うが(欧米では実際にそうなのでしょう)、日本では過去長いこと「家」をその単位としてきたと考えられます。
現代では、「家」がプライベートの最小単位であると信じている人は少ないし、実際に個人のプライバシーということがやかましく言われるけれど、長く日本人の生活に染み込んだ思考がすっかり消え去るということはなく、思わぬところで顔を出したりするにちがいありません。

敷地内は私的空間だから、塀で囲う。
「ここから先はプライベートな空間です」と示すためのものだから、防犯など実質的な機能はなくて構わない。
このため、建物の壁から1mも離れていないところに、一見すると何の役にも立たない塀がつくられることになるのでしょう。

「人の家のことに口出ししないでちょうだい」という物言いや、親による子どもの虐待の問題になかなか踏み込めないことも、こんなところに理由があるのかもしれません。

プライベートの概念を個人に徹底した方がいいとか、家に戻した方がいいとか、そんなことはわかりません。
何事にも一長一短があります。
 
ただ、個人であれ家であれ、「私の権利」の主張はほどほどにしたほうが、結局は自分も住みやすい世界になると思います。
どのみち「私」だけでは生きられないんですから。
2016/1/23
仕事は手でやる

「手でやる。草は鎌で刈る。謙虚になれる。草刈機を使うのは自然を尊敬する念が心のなかに生じてから。手でやる限り自然破壊はない。尊敬できるようになれば機械、重機を使っても、自然に優しい配慮ができるだろう」

柳生博・生和寛『柳生博の庭園作法』(講談社)

草刈機、バリカン(ヘッジトリマー)、チェーンソー、ブロワーなど、庭仕事をするにも、いろいろと便利な機械があります。

機械はすごい。
人の力では何時間もかかることをあっという間にこなしてしまいます。

Kirikuiでも仕事としてやる以上、効率を考えて、機械を使う場合があります。
手間をかける、ということは、そのまま料金に跳ね返ることになるからです。

ただ、機械を使いながら謙虚さを保ち続けることは簡単ではありません。
人間はすぐに思いあがるものです。

だから、許される限り、手作業にこだわっていきたいと思っています。

2016/1/19
仕事とは穴を埋めること

「仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。
そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。
ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって……」

養老孟司『超バカの壁』(新潮新書)P.19

仕事とは穴を埋めることだとするなら、Kirikuiの仕事は穴を埋めることになっているのかと、ときどき考えます。
庭をつくったり、木を剪定したりすることが、世の中を平らにすることにつながっているのだろうか――?
 
それを決めるのは世の中の方であって、僕ではありません。

庭についてはいろいろ考えてきたし、今のところ体も動くし、トラックや脚立などの庭仕事の道具も持っているし、手伝ってくれる仲間もいるし、造園資材を卸してくれる取引先もいます。
そういう僕に対してお呼びが掛かっているうちは、世の中が必要としてくれている、つまり穴を埋める仕事ができているということなのでしょう。

もし声が掛からなくなったとしたら、個人的には悲しいことだけど、僕にしか埋められないような穴はなくなって社会が少し平らになったということだから、それはそれで喜ぶべきことなのかもしれません。
そうなったらまた別の穴を見つけるしかないですね。
2016/1/20
庭師のほうき
庭の手入れをしている職人がほうきで庭を掃くとき、それはただゴミを掃除しているのではなく、庭を清めています。

清めるのは、神様や精霊を迎えるためであり、あるいは邪気を払うためでしょう。

庭師は本来、清めの役割を担っていたと思います。
だから、ゴミが片付いてきれいになればそれでいいということではありません。

ポリプロピレン製などのほうきの方が早くきれいに掃けるとしても、竹などの自然素材のほうきを使います。
植物の持つ生命力を借りてこそ、庭を清めることができるのだろうと思います。
2016/1/19