Kirikuiのエッセイ > 庭について考えたこと

「里山」主義の危うさ
「里山」と言うとき、一般的には田んぼを中心とした農村空間を指す場合が多いと言えます。
Kirikuiで「里山にならう庭づくり」と言うときも、イメージしているのは、やはりそのような空間です。
田んぼ、そこに水をひくための小川とため池、畑、肥料・薪炭・牛馬の餌・建築用材などを得るための雑木林や萱場、人が住まう集落の屋敷林や鎮守の森――。
その多様さが人間の生活を豊かにし、同時にたくさんの種類の動植物に住処を提供してきました。
「里山」は、環境を徹底的に破壊することのない、まさに持続可能な農空間として捉えられます。

そうした「里山」をつくった「手入れ」という手法(あるいは思想と言ってもいいかもしれません)を庭づくりに取り入れたいと考えてきました。
Kirikuiを開業した当初から使ってきた「里山ガーデニング」という言葉には、そういう思いが込められています。

ただ、光を当てれば影ができるのが道理というものです。
「里山」に注目することによって、見えなくなってしまうものがあることもまた事実です。

日本列島に暮らしてきた人々の歴史を見てみると、稲作農業は一つの要素に過ぎないことがわかります。
「百姓」と呼ばれた人々は、米以外の作物(煙草など)の栽培のほか、狩猟、漁労、糸・布・塩・鉄製品・木製品等々の生産、さらには船運業など多種多様な生業に従事していたことが知られ、稲作への依存度は時代や地域によって濃淡があることが明らかになっています。
したがって、「里山」と一口に言っても、場所や時代によってその形態はさまざまだったはずです。
また、芸能等を生業とした職能民の活動なしには、「日本的」な文化――能・狂言、茶道、華道、俳諧などの成立は考えられません。

田んぼありきの「里山」を理想とすることは、山河海の民・職人・芸能民などの多様な文化を視野の外に追いやり、「日本は稲作中心の農業社会だった」という偏見を無意識のうちに承認してしまう危険性をはらんでいると言えます。
(僕自身、この種の間違いには覚えがあります)。

自然との関わり方など「里山」に学ぶことは多く、そのためには、「里山」を田んぼを中心とした農空間として、ある程度単純化したモデルで描くことにもたくさんの利点があると考えています。
ただ、単純化しているのはあくまでも便宜上のことであって、現実は当然複雑であるということを忘れないことが大切だと思います。
2016/2/14
密教と庭
平安時代後期に成立したとされる造園書『作庭記』には、次のような記述があります。

不動明王ちかひてのたまわく、瀧は三尺になれば皆我身也。

大きな滝は言うまでもなく、高さ三尺(約90cm)もある滝であれば、それは不動明王そのものであると、お不動様自ら語っています。
水しぶきを上げて流れ落ちる滝のエネルギーと躍動感が、恐ろしいお顔をした不動明王のイメージにつながるのかもしれません。

現在でも広く信仰を集める不動明王ですが、もともとは真言密教で信仰の対象とされたのが始まりです。
不動明王は、大日如来(真言密教の本尊)の化身でもあり、密教において大変重要な存在とされています。

密教を中国から持ち帰った空海(弘法大師)のエピソードも『作庭記』中に見られることなどから考えると、『作庭記』の思想的根拠の一つは真言密教であるとみて良いのではないかと思います。

密教が本尊とする大日如来は太陽の仏様で、世界の根源にいる仏様です。
しかも大日如来は世界の中心であるばかりでなく、この世界のすべては大日如来のあらわれであるとされます。
人間の中にも、虫の中にも、草木の中にも、大日如来がいると考えられるのです。
これはアニミズム(あらゆる事物や現象に霊魂・精霊が宿ると信じる世界観)と大変近い思想であるという印象を受けます。
そもそも、お釈迦様ではなく、太陽の仏様を中心に考えるという点で、真言密教は「自然」に重きを置いているように思われます。

四神相応、陰陽道などにもとづく記述も見られ、『作庭記』が全編、密教思想で貫かれているわけではありませんが、一木一草に仏をみる世界観がその根底にあるのではないかと思います。
事実、『作庭記』においては、石や樹木が単なるオブジェではなく、霊的な存在として捉えられています。
石を据えるにもたくさんのタブーがあり、石は人間を超える力を持っていると考えられていたようです。
これを、密教ではなく、仏教伝来以前からの自然崇拝として解釈することももちろんできますが、いずれにせよ、この世のあらゆるものが霊的な存在(たとえば仏)として認識されていたことは確かだと思います。

この世界観は、後の時代の仏教にも宗派を越えて共有され、庭づくりにも継承されていきます。
日本における庭づくりの根本にある思想の一つは、一木一草に仏をみる思想なのではないでしょうか。
2016/2/5
庭づくりは一期一会
敷地や予算など同じ条件を与えられて庭をつくるとしても、半年前と今とでは違う庭になります。
新しい知識を得たりすることもひとつの理由ですが、気分とか、体調とか、好みの変化とか、もっと個人的で些細なことが決定的な影響を与えていようです。

庭づくりは、まさに一期一会。

僕もそうだし、クライアントの方だって日々変わっています。
その別々の軌道を持つ線が一瞬交わったところで、ひとつの庭の計画が立てられます。

Kirikuiの庭づくりにはもちろん基本的な考え方があるけれど、依頼をもらうタイミングによってそれぞれ違うプランを提案することになるのは避けられません。

知識と経験を積み重ねるのだから、後になればなるほど良くなるかというと、そんなに単純な話ではないように思います。
年を重ねて円熟味を増して良くなる場合もあれば、若いときの鋭いひらめきを超えられない場合だってあるはずです。

これまでも、これからも、その瞬間にベストだと考えることを提案すること以外に、僕にできることはないようです。
2016/1/19
環境問題という手札
庭をつくるとき、環境への負荷をできる限りかけないようにしたいと思っています。
生産や輸送にかかるエネルギーを極力抑える、不要になったときに自然に帰せないような素材は用いない、など……。

例えば、ウッドデッキなどに木材を使うときは、国産材を使います。
舗装する必要がある場合には、いずれ自然に還るウッドチップや国内の溶鉱炉での役目を終えた古レンガなどを使ってみたり、その場の土を固めるという方法をとったりします。

今や「環境にやさしい」ことは大声で主張するような内容ではなく、当たり前のことになっています。

環境破壊を気にせず疾走できた時代に比べれば不自由だと言えるかもしれません。
そうやって環境問題を足かせと捉えることもできるけど、どうせ避けて通れないのなら、そこからおもしろいものを生み出してやろうと前向きに考えるしかないでしょう。

「手元に配られたカードで勝負するしかない」というのは、人生をトランプになぞらえて、スヌーピーという有名な犬が語った格言です。

僕らの手元には環境問題というカードが配られ、すでにゲームは始まっています。
それを楽しみましょう。
2016/1/18